愛する人を突然亡くした時に起きること
愛する人を亡くすということは・・
ある日突然、愛する人がいなくなる。思いもしなかった。混乱状態となり、何がどうなっているのかわからない。ただ、お葬式の準備を急かされて、答えているうちに何日もたってしまう。
あの人はいなくなってしまった。
でも、私はそのことについていけないということが起こります。
頭の中では、ああしておけばよかった、あんなことをしなければよかった。もっと一緒にいたかった。私も連れて行ってほしい。私を残さないで。ひどい、勝手にいなくなるなんて・・。と思ったりします。
そして、あなたは何を言いたかったの? どうしたかったの? もっと生きたかっただろうに。代わってあげたい。後悔や苛立ち、戻ってきてもらいたい、でも帰ってこない。どうしたらいいの? と何度も問うけど、答えは見つからなくて、でも気づいたら同じことを考えていたりします。
最初は、泣こうにも泣けない。泣くことすら忘れてしまっていることもあったりします。
どこにも落ち着きようがないと感じたります。突然の出来事ではなく、ある程度、予想されたことであっても違いはないように思います。
時間薬しかないのか・・
苦しい・・ 誰にもわかってもらえない。
家から出たくない。誰とも会いたくないと思う。
人に会えば話もするし、仕事にも行くけど、どこか虚ろで家に帰ると泣いてばかりいる。そんな時もあったりします。
死別の悲しみをグリーフと言ったり、喪の仕事といったります。悲しむことは難しい・・
グリーフの5段階
キャサリン・M・サンダースによると、グリーフには5つの段階があると言います。
第1段階 ショック
第2段階 喪失の認識
第3段階 ひきこもり
第4段階 癒し
第5段階 再生の時期
キャサリンは、愛する人との死別を何度も経験したアメリカの臨床心理学者で、長年グリーフの研究を行い、個人カウンセリングや支援者へのレクチャーを行っています。また、死別を経験した渦中にいる方々向けに「Surviving Grief and Learning to Live Again」邦題「家族を亡くしたあなたに 死別の悲しみを癒すアドバイスブック」を記しています。
これらは、順番に進んでいくのではなく、行ったりきたり、あるいは同時に複数の段階にいることもあると思います。一つ一つに段階の長さもそれぞれだと思いますが、やがて癒しや再生の時期がゆっくりとやってきます。人によっては、どこかの段階で留まっている場合もあります。
フロイトによると、悲哀はそれ自体が、生体に大きな負担を強いることになるので、疾患を抱えやすくなったり、事故にあいやすいなど命を危険に曝される可能性が高くなってしまいます。
そうなってもいい、もうこの世界にいなくてもいい、という思いもあるかもしれませんが、身体は生きようとしています。自分の身体の声を聴いてみるのはどうでしょうか。
死別の悲しみは、愛着の喪失でもあり、相手に対して愛着を持っていた自分の一部も同時に喪失すると言われています。生きている間は愛もあったし、怒りや諦め、憎しみなどもあった相手ではあるけれど、依存する部分もあったり、相手がいることで頑張れたりした愛着の対象であったのです。
愛する人はこの世界にはいないけれど、グリーフが進んでいくと、それぞれの人の中に少しずつ溶け込んで存在していくようになるのではないかと思います。
どうにもならない時間もある
時には、何をやってもつまらない、と感じたり、意味がないように思う時があるのも自然なことですよね。
そんなことを思う自分はダメではないですよ。
無理をしないで、ゆっくり進もうという合図かもしれません。
ここまでやってきた自分を許してあげてください。
ショック期には、覚醒度があがっていたり、現実的な対応に時間と労力が割かれて、なんとか過ぎていきます。あるいは、自分の気持ちを棚上げしたり、なかったことにして毎日を過ごす、解離という状態になることで日々を過ごせるようにしているかもしれません。
解離は、とんでもない事が起きた時に、人がとる高度な適応の仕方だと思います。状況を変えることもできない、でも受け入れることもままならない時に、取りうる一つの手段だと思います。
自分であるけど、自分ではないような。あの人が亡くなった以外は何も変わらない日常を過ごすことで、毎日がなんとか回る。スーパーで、あの人が好きだからといつもの商品を手にとろうとして、“そうだ、いないんだ”と気づいて、何も買えずにスーパーを後にする。ニュースを見て、話そうとした時に、あるいはLINEを送ろうとして、はっとする。
お友達が元気づけるために誘ってくれた外出で、家にお土産を買う友人を見てはっとする。私には買って帰る人がいない、と。友人の前では、なんでもないふりをしているけど、とてもつらい。
揺り戻しは、いつどこにあるかわからないから、どこにも行きたくない。誰とも会いたくない。ひきこもり期にはそういうことが起きてきます。最初の頃は、亡くなった人のことを話せても、時間が経ってくると、なかなか言い出しにくい。
自助グループにいこうかと思うけれど、他の人の話は聞きたくない。詮索されるのもいやだ。自分だけのものにしておきたい気持ちもある。
思ったことを書いてみるということもできるかもしれません。毎日同じことばかりと思っても、全く同じではないと思いますし、自分という聞き手に向かって話すように書いてみるということ、一番身近にいて話もわかる自分を相棒にして、共に居てみるのはどうでしょうか。
罪悪感は語れるが、恥は話しにくい
そうやって過ごしていても、時に棚から落ちてきて、あの人はいなんだと気づいてどうしよう? どうしたらいいのだろう? どうにでもなれ、となるときもあると思います。
自分以外の人は、みんな幸せそうに見える。どうして自分だけが、こんなめにあうのだろう? 私、そんな悪いことをしたのかな?
こんなめにあう自分は、どこかおかしいの? 自分には何かが欠けているの?
こう言えばよかった、こんなことしなければよかったのに、と行動に対して持つのは罪悪感ですが、愛する人を亡くした悲しみは、疎外感や被害者意識をうんで、他の人とは違っているように感じてしまうことがあります。
何か大きな力により、なんらかの裁きを受けているように感じたり、自分のどこかが悪いのか? 自分の何かがこの現状を引き起こしたのかと感じるのは、恥の意識です。自分の深いところと繋がっていて、言葉にするのが難しかったりします。
恥は、社会との関係からでてくる感情であり、社会の一員として受け入れられたいという思いと関連しています。
愛する人を亡くすということは、自分の人生をもう思う通りに動かすことはできないという感じを持ったりします。ただ、ひたすらこの罰を受け続けなければならない、世間の目を恐れ、存在を透明にしたいと感じることもあります。
やがてゆっくりと回復していきます
恥の意識は、深い悲しみを乗り越え、自意識を取り戻し、コントロールを回復し、人生の意味や目的がでてきたときに、薄らいでいくものかもしれません。
長い道のりだと感じるかもしれませんが、少しずつゆっくりと回復していきます。
後退しているだけのように思う日もあるでしょうけれど、それも必要だから起きていると思います。
愛する人を亡くすことは、初めてのことです。前に誰かを亡くしたことがあったとしても、その人を亡くすのは初めてであり、混乱のプロセスが軽くなるわけではありません。
癒えていくことは、ないと思えるような時間も、それでもゆっくりと癒えていきます。
忘れることではなく、愛する人がいたことをはっきりと自分の中において、思い出したいときに取り出せるようになっていくと思います。